カテゴリー: 自分史

  • 矛盾

    よくいくスーパーでみかけるおじいちゃんがいる

    おじいちゃんは80歳らしい

    自転車でスーパーにやってくる

    そしてスーパーの前のベンチがおじいちゃんの指定席

    最初はお互い顔見知り程度だったけど

    夏頃かな?

    「足のネイル、綺麗だね」って声をかけられてから、

    会ったら挨拶したり、一言、二言会話してさよならするようになった

    おじいちゃんはスーパーの店員さんや地域の方々にも認知されているようで

    みんな挨拶したり、一言、二言会話して去っていく

    このくらいの距離感がちょうどいい

    ちょっと顔見知り、でも深くは知らなくていい

    人間関係って付き合いが長かったり、深く付き合いだすと、エゴがでてくるから

    でも深く繋がりたい気持ちもわかる

    私自身も、狭く深くの付き合いのが好きだったから

    そう、常に矛盾してる

    でも人ってみんな矛盾してる

    他人の矛盾には敏感に反応して攻撃してくるのに、自分の矛盾には見て見ぬふりをする

    だから、他人のことにわざわざ口だすこの風潮があまり好きじゃない

    私には、自分で自分の首をしめているようにしか思えない

  • ことばたらず

    前回のブログにも書いた

    思考が急に飛ぶ話

    でも私の中で繋がってるから説明できない

    ある意味アイデアみたいなもの

    これは人によって、ことばたらずな人と思われてしまう

    実際、発達検査の結果でも

    言葉の意味を知らなくても、話の流れで理解ができる

    その上、処理速度も早い

    相手の表情、ジェスチャー、過去のパターンから推測して動くから

    直感で動く力や、表情や空気を読む力が人よりだいぶ強い

    いわゆる、非言語能力が高い

    しかし、それを言葉で説明する力は、逆にすごく弱い

    その差が大きいから「分かってるのに説明できない」人だと思われる

    その非言語能力と言語能力の差異が、ときに、相手のエゴを刺激するのかもしれない

    でも本質はみえてしまったりするから、言葉には出さなくても心の中で葛藤をうむ

    そして、相手は気づかないまま、助長していくから

    身体が悲鳴をあげるようになってしまうのか

  • 型を外した先に

    ここまでが、私の”型”を外すまでの物語

    ここから先は、また新しい章になる

    来週、先月受けた私の発達検査の結果を持って、心療内科に話をする予定

    先に結果だけを貰っていたので見たが、自分でも驚くくらい凸凹が大きかった

    だから周りとみてる世界が違ったんだと思った

    また、第二子も、以前から気になっていたことがあるので、来月には発達検査を受ける

    第一子の時とは違う気持ちで、この検査に向き合えている自分がいる

    ここからは未来の話になっていくので

    しばらくブログを書く間隔が空くかもしれないけれど、また書き進めていきたい

  • 「型」がない生きかた

    適応障害からの回復には、結局1年半かかった

    「人は簡単には変われない」——そう痛感した日々の続きから、この話は始まる

    そして、今も回復したとはいいきれない日々だ

    ただ、以前だったらこのようなブログを書いていたら、その時の気持ちにのまれて、動悸が起きたり、涙が止まらなくなっていたと思う

    今は、冷静に当時の記憶を掘り起こしながら書いている

    そんな今だからこそ、見えてきたことがある

    もともと輪の中にいなかった私

    それを、ずっと私自身の弱さだと思っていた

    でも、それは私の特性の一つなんだと、私自身が認めてあげられた

    私が見てる世界と、みんなが見ている世界は違う

    だから、私の考えや価値観がみんなと分かり合えなくてもいいと、心から思えるようになったこと

    自分自身の道を模索して生きていくことが、私の生きる道なんだと思えたこと

    そして、このブログを書き始めたのも、私なりの人生実験のひとつだ

    そう、自分を受け入れた時に、子供に対してやっと「型」を外すことができた

    もちろん「型」がないから、先は全然どうなるかはわからない

    私は、このブログが、誰かの答えになることは望んでいない

    ただ、誰かが自分自身の道を見つけるための、小さなきっかけになれたら嬉しい

  • 適応障害

    適応障害と診断された日…

    10年以上前に社交不安障害と診断された時と同様に、涙が溢れ出た

    ただ、昔と違ったのは、その日にカウンセリングを受け、その後も心療内科へ通い続けたこと

    その日に話を聞いてくれた心理士の方は、私の話を聴きながら、こう言った

    「今日来ていなかったら、数ヶ月以内に鬱になっていただろう」

    ここに来ていた時点で、私はかなりの抑うつ状態であったのだ

    自分も周りも気づいていなかった、私の中でくすぶり続けていた問題

    そんな話をしながら、私はまだ最後に笑顔でいなきゃといつづけた

    泣いても最後は笑顔で会話を終わらしたい

    頭の中ではお礼を言わなきゃとかばかり考えていた

    そんな時にまで、人のことばかり考えている自分に、我ながら闇が深いと思う

    笑ってごまかすことが、いつの間にか癖になっていたのだ

    しかし、ここからがまだ長い

    診断を受けたところですぐには良くならないし、気分の浮き沈みも激しい

    それでも、いつから働けるのかを考え、求職活動まで行ってしまっていた

    休むべき時期に、また動こうとしていたのだ

    人は簡単には変われない

  • 「型」の押し付け

    我が子に、自分が生きてきた「型」を、無意識に押し付けようとしていた

    その事に気づき、そこから本当に抜け出すまで、実は6年かかった

    子供の発達障害がわかってから、私自身がその「型」から本当に抜け出すまでの年月だ

    診断を受けてから

    幼児期は幼児発達支援センターにも通って発達障害の勉強もした

    学童期は月2回の発達障害児用の定期指導も子供に受けさせていた

    それでも、私自身が気づいて抜け出す事は出来なかった

    わかっているようで全くわかっていなかったからだ

    わかっているつもりの時ほどほんとはわかっていない

    それを実感した出来事があった

    抜け出したきっかけだ

    皮肉にもそれは私が適応障害になった事で霧が晴れ始めたのだ

    心療内科に通い、カウンセリングを受けていくなかで気付かされたと言った方がいいかもしれない

    適応障害になったきっかけは、今までと同じ

    職場環境が一番大きい

    輪の中にいるようでいなかった

    というか、輪の中にいなかった、ずっと

    人間関係のもつれから、浮いてしまった

    境界線を引くことが、私はずっと苦手だったのかもしれない

    周りがみてる世界と私がみてる世界が全く違ったのだ

    また社交不安障害が奥底でずっとくすぶっていたから、ストレス耐性も低いままだった

    そして、今回は自覚してるより深刻で様々な不調が身体に出ていたが、私自身が見てみぬふりをして働きつづけたこと

    さらに、同時期に子供にも塾に通わせ始めたが馴染めず、腹痛などを訴えるようになったこと

    これらが重なって、適応障害という形で限界がきたのだと思う

  • 診断後…

    診断を受けた際の気持ちは「やっぱりそうだったんだ」

    という安堵感が大きかったように思う

    産まれてから、なんか周りと違うような違和感を無意識に感じていたから

    でも周りと私とで見ている世界が違っていて

    周りの基準に必死にあわせようとしていた

    合わせることに必死で、自分がどう感じているかは後回しだった

    しかし、まだこの時点での私は

    発達障害というものを完全に理解したわけではない

    発達障害を持ちながら、普通の人達と上手く付き合えるにはどうしたらよいかばかり考えてた

    パートも始めていて、自分自身に余裕がなかった

    そうやって、私はまた「合わせること」を子供にも求めていた

    我が子にも自分が生きてきた

    輪の中にいるようでいない生活をさせようとしていたのだ

    それも無意識に

  • 発達障害の診断

    産後、生後2ヶ月の第二子を連れながら、また新しい幼児教室に通い始めた

    その幼児教室は母子分離で行われる

    私が過干渉にならない状況を選んだのだ

    問題は私自身の内側にあるのに、ずーっと外側に正解を求めていた

    自分の体力も復活していない時期から、必死だったのだ

    このあたりから私自身も咳喘息にかかったり、体調を崩すことが増えた

    身体にもサインが出ていたのに、当時は気づく余裕がなかった

    しばらくして、3歳児健診の案内が来た

    健診はなんとか無事に終わったが

    最後の育児相談で我が子の言葉の不明瞭さを相談し、専門医に診てもらえることになった

    しかし、とても混雑していて

    実際に診てもらえたのは半年後…

    発達障害の診断がおりたのは、その数ヶ月後だった

  • 退塾後…

    初めての幼児教室を辞めたあと、しばらくは習い事に行かなかった

    第二子がお腹の中にいたからという理由もある

    しかし、頭の中では出産後に乳児期を連れていける第一子の次の習い事を考えていた

    発音が少し不明瞭な部分があったり、圧倒的な語彙の少なさがあったからだ

    だから、少しでも喋ったりしていたら動画で撮るようにしてた

    子供の為でもあり、自分の為でもあり、家族にみせる為でもあった

    自分の不安な気持ちを落ちつかせる為と言った方が近いかもしれない

    私は私なりに我が子の育児に向き合っているという記録が欲しかったのかもしれない

    この時代の私は周りから教育ママと言われたが

    本当はそうじゃない

    もし、今の私が当時の私に伝えることができるとしたら

    子供も大事だけど、自分を大切にしてほしい

    まずは、自分の心のケアが大事なんだよと伝えてあげたいくらい

    私の見ていた世界は不安という名の霧の中をずっと手探りで歩いていた

    普通の人はどうやってここを抜け出したのだろうか、そもそも霧の中にいないのだろうか

    出口がわからないまま

    一人で試行錯誤していたのだ

    もしかしたら、霧が晴れた場所から「大丈夫だよ」と声をかけてくれた人がいたかもしれない

    でもその声が私の中に届かないくらい不安の霧は濃かったんだと思う

  • 初めての幼児教室

    幼児教室に行き始めたきっかけは

    やはり自分自身の育児の自信の無さが一番だったと思う

    市で開催される母親交流会など、1度行ってみたが

    ここでも浮いてしまう感覚があり、行きづらくなった

    今思えば、以前、診断された社交不安障害がずっと私の根底にあったのだと思う

    診断後、世間体を気にして通院もしていなかったから

    私が見ている世界は、ずっともやがかかっていたのだと…

    そのことに気づくのは10年後の事だった(この話はまたいずれ書く予定)

    少し、脱線したが、私が過干渉と言われた主な原因は子供の言動を見守ることが出来なかったからだ

    隣で口だししたり、手本を見せたりしてしまう

    私としては心配が故だったが、私の母も一緒にきていたりしていたため

    母に変に思われたくなくて

    親の顔色をここでも伺っていたのだと思う

    自分の子供が産まれても

    私は顔色を伺うくせがずっと続いていたのだ

    しかし、その時は私自身気づいていなかった

    そして、私の身近な家族も気づいていない

    それが普通だったから

    なので、過干渉と言われた時に、私がしていることは間違いなんだろうかと泣いた

    ここでも正解をもとめていたんだろう

    育児に正解なんてないのに

    まさか泣くとは先生も思っていなかっただろうが、その時の記憶があまりない

    そんな事があっても通いつづけたが、引越しをきっかけに辞めた

    リセット癖再発…